私たちは、金沢の伝統文化である金箔を広く紹介する事業を手掛けてきました。そうした中で、ひがし茶屋街にも店を持たせていただいています。中村会長には本当にいろんなことを教えていただいてきました。今年は、ひがし茶屋街の200周年ということもあり、ずっと街づくりに尽力してこられた中村会長の思いを、形として残しておきたいと思っています。
ありがとうございます。ひがし茶屋街の200周年は、11月6日にやる予定です。実は今年は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されてからも20周年にもなります。むしろ、こちらをより重要に思っています。
そうですか。この2020年に、ひがし茶屋街の200周年と重伝建指定20周年が重なるのは、なんというか、良いめぐりあわせを感じますね。ただ、個人的には重伝建になってまだ20年しかたっていないのか、という印象もあります。この20年間でひがし茶屋街は変わりましたか?
大きく様変わりしましたね。人通りもずいぶんと増えました。
それは私たちも実感しています。それでも、コアな部分は変わっていない。時代によって変化しながらも、大事なところを守ってきたのがこの地域の魅力です。私たちが手掛けてきた金箔などの工芸も、新しい提案をしながらも、伝統として大事な部分は変えずに受け継いできました。だからこそ、街の財産になっています。このひがし茶屋街も、街並みの風情や芸妓さんの唄・踊りなど、いまでも金沢の大切な価値を表現しています。だから、ここで店を持つものは、そうした価値に敬意を持たなければいけないし、観光で来られた人にも、そうした価値を伝えていかなければなりません。
全くその通りですね。私は、ひがし茶屋街は、ディズニーランドのようなものだと思っているんですよ。だから、無粋なことをして夢を壊してはいけない。観光の方であっても、それは守ってほしいのです。大事なものを受け継ぐためには、この界隈全体として品格を守ることが大切です。だから、店舗のスタッフの方々はもちろん、お客さんも品格を保つように心がけてほしいのです。
確かに、ひがし茶屋街では品格ということについて考えさせられます。それはお金を持っていればよいということではない。品の良いひとは、酔っぱらっていても、遊んでいても上品です。それは、内面からにじみでる、凛としたオーラのようなものではないでしょうか。
「凛とした」というのは、いい言葉ですね。茶屋街ではね、羽目を外して遊んでいても、品のある人は認められる。逆に下品な人は、だめですね。江戸には「粋」、京都には「雅」という価値観がある。そうしたものに対する金沢の「品格」。それが、ひがし茶屋街が大切にすべきものだと思っています。ここでは、品格が試されるのです。上っ面を取り繕っても、すぐにばれますよ。
そういう意味では、いわゆる富裕層の定義も変わってくると思っています。以前は、高額品を提案するという考え方もありましたが、そうではない。いまは高質品と言うようになりました。ただの金持ちではなく、良いものがわかる人が、この街にはふさわしい。だから、ひがし茶屋街では、品の良い人に向けた高品質のものを提案したいと思っています。
どこにでもある土産物ではだめですよ。逆に、品格のある店にはファンがついていく。それがこの場所での商売にふさわしいやり方でしょう。特に、この「金澤しつらえ」は素晴らしく良いお店になった。
ありがとうございます。中村会長にそう言っていただけるのは本当にうれしいです。
私たちは、みなさんのお店について指導するような立場ではありません。ひがし茶屋街の価値を受け継ぎ、守っていくことに、責任を引き受けているのです。この町にふさわしいものを、と考えていく中で、お店や商品が洗練されていくのが良い関係なのだと思います。箔一さんとは、ずっと、そういうお付き合いをしてきました。ここで磨かれたものが、やがて世界各国にも発信される価値になっていけば、それが一番いいと思います。
その昔には、ひがし茶屋街には門がありました。200周年の記念事業として、その門をもとにしたモニュメントを作ろうと思っています。
なるほど、その門を通ったらひがし茶屋街になる、ということが明確になれば、そこで襟を正そうという気持ちにもなりますね。まさに、品を生む演出になりそうです。
これも、作り物ではいけないですから。昔の資料を参考にして作ります。素材には欅の一尺の柱を使い、黒漆を塗った上品なものになる予定です。
この街では、作り物は似合いませんよね。本物でないと認められない。私たちは、「金澤しつらえ」の改築にあたっても、材料にこだわりぬきました。今ある部材は、ほんの少しも無駄にしないということで、外したものも全部ほかの場所で使っています。また、どうしても資材が足りない場合にも、同じように歴史のある古木を用いるなどして、雰囲気を守っています。
そうやって町全体の品を守ることは、本当に大切なことです。私は、街を歩いていて、気になったら遠慮なく注意をします。食べ歩きをしていたり、ポイ捨てをしている人は、絶対に見逃せません。若い人でも、お年寄りでも、また外国の人でもです。ただ、今はね、ほとんどの人がすぐにわかってくれるんです。それは、ひがし茶屋街が全体として、品格を保っているからだと思います。特にメインの通りは本当にきれいになりました。そうしたことが、街に品を生み出し、自然と「下品なふるまいはいけない」と理解させられるのでしょう。
それは、中村会長はじめ、皆さんの努力の成果ですよね。品格を感じさせるには、大切にすべき「核」の部分がなければいけません。そこをきちっと守っていると、凛としたオーラをまとうことができる。逆にそれがないと、安く見られてしまいます。ひがし茶屋街は、あくまで品格を守ることで、人から憧れられる街であってほしい。
その通りです。だから私は、品格のない店が出店しようとしたときにも、抗議をしました。食べ歩きやポイ捨てを禁止にするのも、そうした品格を守りたいからです。
守るべきものがあると、どうしても規制が増えていきます。ただ、あれもダメ、これもダメと、禁止事項ばかりから入ると、どこか堅苦しい街だと思われてしまいます。本当はそうではないですよね。目的をしっかり伝えれば、理解してもらえるでしょう。ここは襟を正して歩く街なのだと。そのためには、ひがし茶屋街が説得力のある風情をもっていなければならないですね。
そうです。いまでは、メディアの取材なども慎重に判断をしています。
テレビ番組等では、面白おかしくネタにされ、消費されていくような扱いを受けることもあります。取材を受けるにしても台本や構成、また作る人たちの考え方などもちゃんと見なければいけません。時には、取材もお断りするなど、毅然とした態度をとっていく必要がありますね。
私は、ここが、世界に通用するひがし茶屋街でなければならないと思っています。それを考えて、日ごろから努力をしていかなければならないのです。
この地区には、町会である「東山親和会」や茶屋の集まりである「東料亭組合」、また「金沢東山・ひがしの町並みと文化を守る会」「東山菅原神社奉賛会」「金澤東山まちづくり協議会」などが様々な団体があります。それぞれ立場が違うから、なかなか皆が同じ考えになれなかった。
そこを、うまくまとめられたのが、中村会長です。
私が全体を仕切る立場になったときに、今までのやり方はすべて変えましたね。それと同時に、人間関係のこじれた部分があったのも、つなぎなおしていった。ここには、茶屋を守ってきた人たち、お店を持つ企業の人たち、また生活している人たちなど、それぞれの立場の人たちがいます。この人たちが混ざり合って街を作ってきた。互いの立場を理解し、それを超えて、街のことを考えていくことが大事なのです。
まさに、会長が中心となって意識を一つにしてこられた。それは、中村会長が、理念をもっていたからでしょう。
理念といっても、難しい面もありました。ここには、古くから住んでいるお年寄りの方もいらっしゃいます。この人たちにとって大切なのは、静かな日常生活が守られることでしょう。そうすると、街づくりの文化や哲学を語っても、あまり関心を持たれないこともある。ですが、街を作るには、こうした人たちも巻き込んでいかなければならない。だから、みんなで旅行に行って、酒を酌み交わしたりしてね、そうした地道な努力を続けてきました。みな共通しているのは、地域への愛情ですから、それをベースに戦略をもって人々を結び付けてきました。
やがて、ひがし茶屋街を構成する人たちも、変わっていくのでしょう。ここで育ったという人でも、世代が変われば考え方も変わってきます。また、私たちのように企業として仲間に入れていただく人たちも増えてきます。そうして、若い世代が増えてくれば、また違う考え方も生まれるかもしれません。そうした時にこそむしろ、中村会長の理念が重要になってくると思います。
年月が経てば、古い人はいなくなっていきます。ただ、歴史を知っている人がいなくなってはだめなのです。若い世代や、企業の人たちのエネルギーを生かすには、街づくりの歴史を知っている人がいることが大切ですね。
そういう意味では、まさに中村会長のような人から、その経験や知識を学んでいかなければなりません。若い人たちも集めて、一緒に食事をしたりして、きっちり会長の話を伝えていきたいですね。
正直言うとね、これまで、そういう機会が少なかったようにも思います。今日は、こうして浅野社長に話を聞いていただいているので、古い話もしていますがね。だいぶ昔、浅野川沿いに28メートルのマンションが計画されたことがありました。これが建ってしまうと、浅野川大橋から卯辰山が見えなくなる。この地区には、泉鏡花が詠んだ「母こいし 夕山桜 峰の松」という句碑がありますが、その美しい景観が壊されてしまう。私は、東京の開発会社の社長に手紙を書き、ここがいかに金沢市民にとって大切な場所なのかを訴えた。その結果、マンションの計画は中止になりました。
なるほど。そういう話こそ、若い人に伝えていかなければなりません。案外、苦労をしたことほど、話たくないという気持ちになることもあります。ですが会長の理念を残していくことは、ほんとうに大事なことです。街づくりの考え方が、若い世代で変わってくることもあるかもしれません。ですが、迷ったときに戻ってこられる場所として、会長の考え方がずっと必要になると思います。
私は、ひがし茶屋街は、金沢市民の心のよりどころであると思っています。市内の別の地域がどれだけ発展していっても、金沢市民がひがし茶屋街に抱く愛着のようなものは、いつまでも変わらないでしょう。
それは、すごく良くわかります。金沢市には商業の中心や行政の中心とされるエリアもありますが、それとは別に、ひがし茶屋街に文化の中心のようなものがある。工芸にしても、食にしても、金沢の人は文化については一定以上の水準をもっています。その原風景がこの地域にあるような気がします。その凛としたたたずまい、品のある街並みをみて、自分たちが生きている「今」は、脈々と受け継がれてきた歴史の一部だということを、実感できるのでしょう。
そうなんです。それは、街並みや文化的な景観はもちろんのこと、芸妓さんの芸など本物の文化がここに残っているからでしょう。
そういうものを表現してきたのが、浅の川園遊会でした。中村会長は、浅の川園遊会を主導した4人のうちの1人として、40年も前から、街づくりに貢献してこられました。
繁華街が、武蔵や香林坊・片町へと移っていき、この界隈が少しずつ寂しくなっていく。そんな時期もかつてあったのです。それでも、浅野川の静かな流れと卯辰山に抱かれたひがし茶屋街の風情というものは、いつまでも金沢市民の心のよりどころです。こうした景観の中で、芸妓さんの芸を見てもらえば、自分たちが、いかに文化的な街に暮らしているかを実感できる。これは、この地域でなければできないことです。そんなことを考えて作ったのが浅の川園遊会です。ここで唄や踊りを見て、芸妓に憧れるようになった、という女性も出てきました。
今まで、一般の人には縁遠かった茶屋街の世界が、浅の川園遊会によって身近になりました。特に女性のファンが生まれたのは、素晴らしいことですね。
ここには、本物があるのです。唄や踊り、三味線、太鼓など、芸を受け継いできた芸妓さんや師匠たちがいて、工芸作家や料亭の技なども界隈に多く残っています。そうしたものが、この風情の中で息づいている。この価値は大きい。たった4人で始めた浅の川園遊会が、最盛期には16万もの人を集めるイベントになったのは、本物の芸や技に触れられる機会を提供したからでしょう。
ただ歴史がある、ということでないですね。今も現在進行形で文化が継続している。それが、このひがし茶屋街の素晴らしいところです。
これは、たくさんの先輩たちが守ってきたからこそです。(ひがし茶屋街にある)菅原神社には、菅原道真公をはじめとして、多くの神様が祀られています。その中には、ひがし茶屋街設立当時の第12代藩主前田斉広公など、この街に貢献してきた人々もいらっしゃいます。そのような、多くの人が200年にわたってひがし茶屋街を守ってきました。私は、街は生き物だと思います。だから、これからも変わっていくでしょう。その流れは止めてはいけないのです。止めると死んでしまいますから。
私たちも、この街の歴史や、そこにかかわってきた人たちの思いを大切にしながら、お店を運営することを心掛けてきました。今日、貴重なお話をいただき、ますますその思いを強くいたしました。
本当にありがとうございました。