街づくりへの想い
Thoughts on town planning
2020年10月26日 金澤しつらえにて

街づくりへの想い 対談 金谷 武雄  様

金沢東山・ひがしの街並みと文化を守る会 初代会長
※役職は2020年7月時点のものです

聞き手:浅野達也(箔一 代表取締役社長)

古いものを守るだけでなく、新しいことへも取り組んでいってほしい

本日は、よろしくお願いいたします。私たちがひがし茶屋街でお店を構えるようになってから、10年以上が経ちました。最初に店を作ったころから、金谷さんには、本当にいろいろアドバイスをいただいてきました。

あの頃は「金沢東山・ひがしの町並みと文化を守る会」(以後、守る会)の会長を務めていましたが、あちこちの店でかなり厳しくものを言っていました。厳しく言わないと、直らないですから。でも、箔一さんは、いつもきちんとされていて、ほとんど意見することはなかったと記憶しています。

最近は、この街のルールも確立されてきたところがあります。「金沢らしくふるまう」ということについても理解が進んできました。ですが、当時は、まだまだ考え方が統一されていない面もありました。

だからね、ほっておくと変な商売をする人たちが出てきていたのです。格子戸に派手な飾りをつけたり、店頭で牡蠣を炭火焼きして販売するような店もあった。そういう時には、厳しく言ってやめてもらいましたよ。

私たちもいつも、この街でどうふるまうべきかを考えていましたが、企業としてここで店を持つというケースはまだ少なくて、参考になるケースも見つからなかった。だから、金谷さんに茶屋街でのふるまい方を教えていただいたことは、とても力になりました。

浅野社長は、いつも丁寧に話を聞いてくれていましたからね。むかしね、東湯の道端さんが、銭湯をやめて跡地でジャズバーを開こうと計画したことがありましたね。いくつかの企業が協力を申し出ていて、私も、相談にも乗っていました。でも実は、はじめから箔一さんが良いよねということになっていたんです。

そうでしたか。それは、どういう理由だったのでしょう。

直観ですよ。インスピレーションです。そう感じさせる真摯さがあったのでしょう。

夜も歩ける、ひがし茶屋街にしていきたいという願い

あの頃、東湯の道端さんと、金谷さんとも一緒にジャズバーめぐりなどもしましたね。よく覚えています。

浅野さんにドライバーになってもらってね。京都まで行って、お店を回って、道端さんのご子息の翔太さんに会ったりもした。道端さんはNYのブルーノートのような店をイメージしていましたね。

翔太さんに、ジャズはお好きなのですか、とストレートに聞かれたことを覚えています。頭の良い人で、ここは取り繕ってもダメだろう思って「好きけど、得意ではないと」と正直に返事をしました。

そうですか。それでも道端さんは浅野さんを選んだ。ひがし茶屋街は夜が寂しい。本来なら夜になってお座敷が始まって、にぎわいはじめる街のはずが、夜には真っ暗になってしまう。だから、遅い時間を盛り上げたいと考えていたんです。

なるほど、その気持ちは、私たちにもよくわかります。いまでもそうですよね。

そう、いまも夜になると真っ暗ですよ。昼は賑やかでも、営業が終わるとみんな行灯も消してしまうでしょう。

私たちは自分たちの店だけでも灯りをつけるようにしています。パリのシャンゼリゼ通りなどでは、ほとんどの店が営業終了後にもショーウィンドウの灯りをつけています。そうすることで、街並みは美しく映えるし、防犯上の効果もある。観光の人が風情を楽しみながら歩ける状況にもできる。それも地域貢献ではないかと考えています。

いつまでも一緒にやれる、地元の企業と協力していくべき

あの当時、道端さんは、ジャズバーを作るという夢を実現するために頑張っていました。でも、そのあと少し体を悪くされてしまってね。

ええ、よく覚えています。それで話し合いをして、私たちがお店をさせていただくことになりました。2011年のことです。銭湯の煙突がかなり老朽化していて、早く手を打たないと危険だったということもありました。

煙突のことは、道端さんもかなり気にされていましたね。万が一倒壊したら大変な迷惑をかけると。だから、箔一さんに引き受けていただいたのは、良かったと思う。

東湯(現:箔一東山店)は、ひがし茶屋街のランドマークでもありましたから。守っていくことは、地域の企業の使命でもあると思っています。

今でこそ、ひがし茶屋街が注目されて、土地や建物を欲しいという人も増えました。でも、ほんの少し前までは、全くそんなことはなかった。茶屋や町屋を維持していくのが本当に大変だった。住んでいる人たちも、本音ではもっと現代的で機能的な家に暮らしたがっていたから、せっかくの歴史ある建物をつぶしてしまうこともあった。

だから、景観を維持するために、有志の企業が建物を購入していましたね。

金沢青年会議所など、地元の経済界の人にお願いしたりしてね。今ほど大きな商売ができる状況ではなかったから、その頃に投資してくれた企業さんは、損得勘定ではなかったと思います。いまになって、そういう人たちが、このひがし茶屋街で成功できているのなら、本当に良かった。

青年会議所のテーマは街づくりとリーダーシップですから、意識が高かったのでしょう。私も、ひがし茶屋街のことを真剣に考えるようになったのは、青年会議所での活動がきっかけでした。2007年に北陸新幹線開業をにらんだ中長期の政策提言を取りまとめる責任者になったのです。他の地域の先行事例を調べる中で、このひがし茶屋街という存在が、金沢にとってかけがえのない財産であることに、あらためて気づかされました。

そういう考えを持ってもらえる企業とこそ、一緒にやっていくべきだとは常に考えていました。商売優先で入ってこられて、周りとの協調を考えないような企業では、この街にはあわないですから。

商売優先で、儲からないとすぐ出ていくということではいけない

私も、全国の観光地を、ずいぶん視察してきました。その中には、都会の大資本に買い占められてしまった地域もありました。地元のリーダーたちと話をすると、住民はレジ打ちくらいしか仕事がないという。だから、どれだけ賑わっていても、地域経済が全く潤わなくなってしまうのです。金沢がそうなってはいけない、という危機感は強くあります。

本当ですよね。そのうえ、そういう都会の資本は、儲からなくなるとすぐに出ていくでしょう。あるリゾート地では、スキーブームですごく賑わったけど、ブームが去ると都会の企業が撤退してしまい、ゴーストタウンのようになってしまったところもある。

だから、この街を愛している企業こそが、建物を所有すべきなのです。私たちは、金沢箔という地域の文化を守ってきました。金沢箔は、世界で認められるほど評価が高い。それは、地域の伝統に根付いているからですよね。だからこそ、私たちはこの街を守っていかないといけない。そう思って、ひがし茶屋街の町屋の保存や復元にも積極的に力を入れてきました。

そうした企業が、とても大切なのです。この街に根を張ってやってきた会社なら、簡単に出ていくなんてことも、できないからね。やはり、長く関係性を続けていってくれる人と一緒にやっていかなければならないですよね。

重伝建の選定にいたるまでは、本当に大変でした

金谷さんは、2001年にひがし茶屋街が重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定される過程でも、大変に尽力をされていましたね。当時の雰囲気は、どのようなものだったのでしょう。

猛烈な反対にあっていましたよ。それは、ものすごかった。重伝建に指定されると、リフォームも自由にできなくなるとかね。それに、ひがし茶屋街は夜の街ですから。いまなら風情ということで、前向きなイメージが強いけども、かつてはそう思わない人もいました。肩身の狭い思いをすることすらありましたから。

なるほど。一方で、行政の人はとても積極的で、かなり温度差があったとも聞いています。

行政の人たちは、とにかくやってくれ、という姿勢でしたね。何とか重伝建の選定を取りたいと。それは悲願と言ってもよかったと思います。

そうですか。しかし、それほど猛烈な反対があるなかで、最終的には、みなさんの同意を得て重伝建に選定されたわけですよね。

ええ、当時は主要メンバーでいつも話し合いをしていました。それで、住民の人たちにアンケートをしてね。とにかく不安なことを細かく聞き出して、行政と詰めていったのです。選定されると自宅に駐車場が作れなくなることもある。なら、近隣で借りる場合に補助金を出していくとか、また固定資産税を優遇していくとか、対応を考えました。そうした住民の不安は200項目ほどもありました。それを、一つひとつ、行政サイドと折衝して解決していったのです。

それは大変な努力ですね。金谷さんは、住民とのコミュニケーションを丁寧に取ると同時に、行政との付き合い方も上手でした。そうやって折衝を重ねるにしても金谷さんの力は、とても大きかったように思います。

旅行の仕事をしていた関係で、行政の人とも付き合いがありましたから。彼らの考え方などは、わかっていたほうだと思います。それでも、政治的な動きは厳に慎みましたね。それをやると、貸し借りやしがらみになってしまうから。あの頃、役所の担当者はご苦労されたと思います。なんとか住民の同意を取り付けて、その報告をしたときには、行政の方は涙を浮かべて喜んでいました。ものすごく感謝されましたよ。

そうですか。その担当の方にも、様々な思いがあったのでしょうね。そうして、住民が賛成してくれ、守る会ができ、重伝建に選定されるという流れでした。金谷さんは、守る会の初代会長に就かれましたが、それは前から決まっていたことだったのですか?

まさか、私が会長になるとは夢にも思っていませんでした。メンバーの中でも、若輩でしたから。諸先輩方に「おまえがやれ」と言われて、お役に立てるのならと引き受けました。それから10年務めさせていただきました。

重伝建に選定されたことは、ひがし茶屋街の景観が守られていることにも、大きな力になっていますよね。金谷さんのような人がひがし茶屋街を守ってきたからこそ、今のような賑わいが生まれたのでしょう。若い人たちは、この状態が当たり前のように思ってしまいがちですが、そうではないですよね。経緯についてもちゃんと伝えていくべきですね。

企業と住民が共存できるまちづくりを

いまは、ひがし茶屋街は本当ににぎやかになりました。でもね、その反面、私が不安に思っていることもあるのです。それは、住民のつながりが少しずつなくなってきているように思うのです。

時代の流れもあって、住んでいる人が減っているというのは実感します。金谷さんが会長のころには、盆踊りなど、様々なイベントもありましたが、そういったものも少なくなりました。私たちが住民の方と交流できる機会も、バーベキューくらいしかなくなっています。

どれだけ街がきれいになっていても、そこに住む人がいなくなってしまうと、作り物の施設のような、味気のないものになってしまいますよ。それに住んでいる人どうしですら、コミュニケーションが希薄になりつつあります。そこに危機感をもっているのです。

白川郷などでは、あの合掌造りの家に、いまでも人が住んでいますよね。そのことに驚く人もいます。遺跡のようなものだと思っていたら、いまも住宅として使われていて、人々の生活のにおいのようなものがあると。古い建物を保存するだけではなくて、その土地の生活文化も一緒に受け継いでいくというのは、とても面白い残し方ですよね。

そうなんです。観光の人が来られても、「あ、ここにも生活があるのか」ということの感動があってほしいのです。一時、炊事場からカレーライスのにおい流れてきたという苦情もありましたが、私は、それこそ生活の匂いだし、人が住んでいるからこその活気だと思います。そういう街こそが、魅力的なのだと思いますね。

住む人との兼ね合いをどうとるかは、難しい問題もありますよね。例えば、歩行者天国は観光の人にとって良いことですが、車が通れないのは、暮らしている人にとっては不便ですよね。デイサービスも時間が限られたり、タクシーもなかなか入ってこられないという話も聞きます。そうすると、もっと便利なところで暮らそうとなってしまう。

そうしたことを解決していくためにも、住民同士のコミュニケーションが必要なんですよ。時代の流れには逆らえないけれども、街が発展して店が増えるということは、便利になるという面もたくさんあるんです。すぐ近くで買い物ができたり、仕事先だって徒歩圏内で見つけられる。自宅で商売することもできれば、やがて子供や孫に受け継いでいけるかもしれない。そうしたプラス面も見て、企業と住民とが共存していける街になってほしいですね。

そういう意味では、金谷さんがずっと力を入れられていた「お祭り」というのは、価値のある取り組みでした。地域のコミュニケーションを生む本当に良い仕掛けになっていましたから。東北地方や、能登なんかでも、お祭りが地域の人を団結させる役割をもっていますよね。会議や会食だけでは、なかなか絆といえるものまでは作れませんから。

その通りです。昔、盆踊りをやったときのように、新しいことに挑戦しながら、街の文化を守っていってほしいと思っています。私はもう、一つ前の世代です。まちづくりについても、現役を退きました。これからのことは、若い人たちが考えていけばよいのですが、新しい発想で、住民同士のつながりや、人が暮らせる環境を作っていってほしいと願っています。古いものを守ってばかりでは、街はいずれすたれていきますから。

私たちも、地域の一員として協力していければと思います。本日は、本当にありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。また、いろいろ話し合いましょう。